静かなオフィスに隠された、ひそやかな空想。
午後10時。
フロアの明かりはほとんど消え、静けさが支配していた。
残っていたのは、私と――部長だけ。
私は自分のデスクで、最後のレポートをまとめていた。
モニターの光がぼんやりと顔を照らし、カタカタとキーボードを打つ音だけが静寂を切っていた。
そのとき、Slackにメッセージが届いた。
「会議室Cに来て」
送り主:部長。
(え…どうして?)
私は急いで書類をまとめながら、胸の奥でざわめく気持ちを押さえた。
会議室Cはフロアの一番奥、ほとんど使われない部屋だった。
扉を開けると、部長が窓際に立っていた。
ネクタイをゆるめ、シャツのボタンを一つ外している。
いつもは完璧主義で無表情な彼が…どこか、無防備に見えた。
「よく頑張ってるね」
低く穏やかな声が静かに響く。
「はい…明日までに仕上げたくて」
そう言って、私は書類を差し出した。
でも彼は受け取らなかった。ただ、じっと私を見つめる。
「最近、遅くまで残ってるよね。疲れてない?」
「少し…眠いかもです」
私は苦笑いを浮かべた。
その瞬間、彼が一歩近づいてきた。
距離は、30センチほど。
彼の視線が、私の唇に落ちた。
呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
「そんなに頑張ってる君を見てると…何かしてあげたくなるんだ」
「…部長?」
彼の指先が、私の頬にふれた。
あたたかく、優しく、けれど――男の人の指だった。
そして、耳元でささやく。
「外では言えないことが…君には言えそうな気がするんだ」
私は、自然と頷いていた。
胸の鼓動が、まるで警報のように高鳴っていた。
彼はそっと私の手を取り、イスに導いた。
向かい合って座り、その目は真剣だった。
「君って、人に甘えるのが苦手なタイプでしょ?」
図星だった。私は唇をかんだ。
「でも…たまには肩の力を抜いていいんだよ」
彼の目はやさしくて…どこか、さびしさを帯びていた。
その瞳を見ていたら、心のガードがふと溶けた。
「仕事じゃなかったら、私…たぶん――」
言いかけたそのとき、
彼の指がそっと、私の唇に触れた。
「もう、何も言わなくていいよ」
彼の顔が近づく。
目と目が合って――
唇と唇が、あとほんの少し――
「――はっ!」
私はハッとして目を開けた。
そこは会議室じゃない。
ただの自分のデスク。
開いているのはExcelと、いつものタブだけ。
部長は、向こうの席で電話をしていた。
…すべて、私の妄想だった。
頬を両手で包み、あたたかさに気づく。
ふふっと、小さく笑ってしまった。
(なに考えてるんだろ、私…)
でも――
この空想で、少しだけ心が軽くなった気がした。
厳しいオフィス。厳しい上司。終わらないプレッシャー。
そんな中で、心を守る唯一の逃げ場。
それが、私だけの「秘密の会議室」。
現実には存在しないけど――
そこでは、私は誰にでもなれる。
そして、少しだけ…自分を許せる場所。