— 肌が記憶する静かな再会の物語 —
年季の入った木と畳の匂いが、遥(はるか)が襖を開けた瞬間に立ち上った。長い沈黙を経て、まるで工房自体が彼女の帰りを待っていたかのようだった。障子越しの光は柔らかく、時に溶けていた。
64歳になった遥は、娘であり、妻であり、そして未亡人でもあった。今また、「遥」という名を一人で背負う女として、静かに立っていた。
その朝、こんな文が届いた:
「娘に着付けの体験を贈りたい。昔、あなたの手で締めてもらったあの帯…覚えていますか?」
もちろん覚えていた。そして、その帯を身につけた男のことも。かつての生徒・勝(まさる)は、今や彼女と同じ銀の歳月を背負っていた。
彼が工房に入ってきたとき、白檀の香りとともに、どこか懐かしいためらいを連れてきた。姿勢は丁寧で控えめだったが、視線は長く彼女にとどまった。
遥は、深い藍色の着物を着ていた。黄昏を思わせる色。その所作の中で、ふわりと椿油の香りが立ちのぼる。豊かで、花のようで、そして記憶に深く残る香り。
勝は、思わず息を吸い込んだ。その香りは、肋骨の奥——記憶ではなく感覚が眠る場所を、そっと刺激した。
彼女が帯を締めながら手本を見せるとき、指先が触れた。軽く、偶然のような一瞬だったが、どちらも手を引くことはなかった。
「手が、覚えているんですね」と勝が囁いた。
遥は微笑んだ。「信じてもらったことは、全部覚えてるのよ。」
彼の背後にまわり、襟を整える。そのとき、彼女の手首が彼の頬にふれた。椿の香りとともに、あたたかく、柔らかく。
「少し緩いわ。もう少し、締めましょうか。」
その声は、近いだけでなく、彼の内側に入り込んでいた。
ふたりは鏡の前に立つ。映ったのは、年を重ねたふたりの姿。しかし、そのあいだの空気は、年齢を超えた何かで震えていた。
椿油。布と肌の接触。ゆったりとした、熟練の所作。
彼女が襟のひと折りを整えたとき、指先が彼の首筋にふれた——耳の下の、誰にも触れられていなかった静かな場所。
「この香り…あの夜と同じですね?」
「ええ、ずっと忘れずにいたから。」
その後、ふたりは奥の間でお茶を飲んだ。障子の向こうでは夕日がゆっくりと落ちていく。畳の上で、ふたりの膝はそっと並んでいた。
彼女がお茶を取るとき、袖と袖がふれあった。
「今日のほうが、初めて着物を着たときより、顔が赤いわね」
「今日は、感じてることが、はっきりわかるから。」
椿の香りは、ふたりがその場を離れたあとも、静かに部屋に残った。